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第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-019

1 :清き一票@名無しさん:2005/04/14(木) 18:47:01 ID:Nh/KkzKP
各板の応援・支援・宣伝はこちらでどうぞ。

<公式サイト>
http://bbsvote.kakiko.com/2ch.html        http://plum.s56.xrea.com/2ch.html
http://www.geocities.jp/bbsvote_2005/2ch.html http://6419.net/bbsvote_2005/2ch.html 他

<関連リンク>
運営スレ http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/vote/1113234099/
雑談スレ http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/vote/1113407800/
愚痴スレ http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/vote/1112846913/
長文スレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/shop/93/1109668708/

前スレ(018)  http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/vote/1113252043/

349 :囲碁・将棋板より三戦板支援(1/5):2005/04/17(日) 20:48:39 ID:dokCkm8M
囲碁は古代から伝わる遊戯の一つで、三国時代にもさかんになされました。
士人階級の教養ある遊戯であるとともに、賭博としても大いに流行していました。
漢代の碁盤は、古代から伝わる縦横17道289路のもので、三国時代の英雄たちも
その形式の碁盤で打ちました。

碁石の数は白黒各々150個ずつであわせて300個であった事が、魏の邯鄲淳(かんたんじゅん)
が著した『藝経』に見えます。碁盤の形式はその後、若干変化して、南北朝から隋・唐にかけて、
現在同様の19道361路に増えました。

420余年にわたって勢威を誇った漢王朝が衰退し、後漢時代の末期、統制のとれなくなった
中国全土は混乱の極に陥り、群雄割拠する戦乱の時代に突入しました。
このあと、曹操の魏(西暦222−252年)、孫権の呉(222−252年)、劉備の蜀
(221−262年)が覇権を争う有名な三国時代になるのですが、この戦乱の時代、
多くの英雄と賢者が出現しました。

これらの英雄たちの活躍ぶりを描いたのが、有名な長編小説「三国志演義」ですが、この
三国志の中に登場する英雄、賢者たちと囲碁は、かなり関わりを持っています。

350 :囲碁・将棋板より三戦板支援(2/5):2005/04/17(日) 20:49:12 ID:dokCkm8M
魏の太祖である曹操は、「古今稀にみる兵法家であり、一流の詩人であり、書も上手、音楽、
建築にも通じた多才多芸の人物で、特に囲碁を好み、その技量は抜群だったと伝えられている」
(『古代囲碁の世界』)ほどで、当時の囲碁の名手と対等の腕前だったといいます。

また、蜀の豪傑、関羽も囲碁好きで有名な武将で、特に三国志演義での次の場面はあまりにも
有名です。

「魏の曹仁と樊(はん)城の攻防戦を展開したとき、関羽が先頭に立って敵の降伏を呼びかけた
ところ、数百本の矢を射られ、その中の一本の毒矢が右腕に突き刺さって関羽が落馬しました。
ただちに、華佗(かだ・中国の医術の開祖として高名)という名医を探し出して、毒の回った
片腕の切開手術が行われましたが、麻酔のない大手術にもかかわらず、関羽はじっと耐え、
酒を飲みながら部下の馬良と碁を打ち進めた」

351 :囲碁・将棋板より三戦板支援(3/5):2005/04/17(日) 20:49:38 ID:dokCkm8M
さて、呉の英雄についてですが、この国ではことのほか囲碁が盛んだったようで、「朝廷、
群臣のあいだに碁が盛んで、政務を怠りがちなものもあったようだ。これを訓戒する文章
なども出ている」(『古代囲碁の世界』)ほどだったといいます。
当時の書物『葦曜傳』に、「一面の碁盤と国の政治とどちらをとるか。三百の碁石と万人の
将兵とどちらをとるか」とあります。

呉の国は孫権が建国しましたが、孫権の兄の孫策が囲碁の愛好家で、同じ愛好家である臣下の
呂範と打ったとされる棋譜が残っています。
ただ、孫策と呂範が囲碁愛好家であったことは種々の書物に載っていますが、この頃に
「19路盤の対局譜」が存在したことについては、後世において疑問視されています。

352 :囲碁・将棋板より三戦板支援(4/5):2005/04/17(日) 20:50:40 ID:dokCkm8M
武将ではなく、文人、墨客、詩人らの知識人らも、乱世を憂いつつ、詩を吟じ、文学を論じ、
そして囲碁に興じていました。

建安年中(196−220年)に輩出した孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮ウ(王偏に禹)・
応トウ(王偏に昜)・劉驍轤「建安七子」といい、特に王粲は博覧強記、囲碁の名手として
後世に知られています。自分の打った碁に限らず、人の碁を見ていて、始めから終わりまでの
手順を復元することは朝飯前だったといいます。

西晋時代に入ると、戦塵を逃れて奥深い竹林で清談に明け暮れたのが、よく屏風に囲碁を
打っているさまを描かれている、有名な「竹林七賢」でした。
阮ウの子の阮籍はその中の一人で、たまたま碁を囲んでいるときに母親の死を知らされたの
ですが、阮籍は対局を止めようとせず、そのまま打ち続けて勝ちを収めたというエピソードの
持ち主。「親の死に目に会えない」という日本の諺の"元祖"のような人物でした。

353 :囲碁・将棋板より三戦板支援(5/5):2005/04/17(日) 20:52:26 ID:dokCkm8M
やや時代がくだった南北朝時代にも賭博としての囲碁の流行はやまず、東晋の元老・王導や、
謝安なども囲碁の名手として有名でした。南朝・宋の羊玄保(ようげんぽ)は、文帝との
囲碁の勝負に勝ち、宜城太守のポストをせしめたほどで(『南史』羊玄保伝)、同じく南朝・
梁の武帝にいたっては自らの手になる『碁法』という書があるほどです。

かくも多くの事例がある事からも、囲碁の流行ぶりが伺われますが、それを好ましく思わない
むきもありました。『三国志』呉書・韋曜伝には、呉の太子・孫和が韋曜に書かせた博打を
非難する長大な文章が見えます。その文章は『博奕論』と呼ばれ、文学のアンソロジーとして
梁代に編まれた『文選(もんぜん)』の巻五十二にもおさめられています。

以上、囲碁と三国志のかかわりについてでした。

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